ラベルのスペイン狂詩曲 その4

クラッシックを聴き始めた初期の頃の体験ですが、当時は既に、ドボルザークやベートーベン、チャイコフスキーのメジャーな交響曲も聴き始めていて、それらの曲たちに夢中になっていた頃でもありました。やはり僕のクラッシック聴き始めは、ご多分に漏れず交響曲からスタートしていた訳です。

でも、ラベルのスペイン狂詩曲は、それらの交響曲とはだいぶ違う種類の音楽、一定のフォーマットを持たない不定形の音楽に聴こえました。そうか、音楽にはこういうことも出来てしまうのか、クラッシックってやりたいことが自由に出来てしまう音楽なのだな、と思いました。

例えば、吉田秀和さんは、ラベルの音楽を確かに素晴らしく良くできているが、人工的で表面的な音楽であるというふうに評しています。確かに、吉田さんの言っていることはわかる気がする。賛同する側面も半分くらいはあるかな?ラベルの音楽には、そのような側面があることは僕も一方で強く感じて来ました。

例えば、ドビュッシーの音楽と比べると、そのことは強く感じられます。僕の感覚で言えば、ドビュッシーの音楽の出所は、とても、とても、とても深い。ドビュッシーに比べると、ラベルの音楽の出所は遥かに浅い感じがします。

けれども、僕には少年時代のこのような経験があった関係もあるのか、ラベルの音楽には一筋縄では済まされない何かがあると感じます。やはり、ボレロのような異常な曲を書いてしまう人たからなー。

何しろ、クラッシックを聴き始めたばかりの中学一年生には、スペイン狂詩曲は不定形な異形の音楽に聴こえました。初めはよくわからなかったけれども、ボディーブローのようにじわじわと効いてくる経験でありました。