ラベルのスペイン狂詩曲 その4

クラッシックを聴き始めた初期の頃の体験ですが、当時は既に、ドボルザークやベートーベン、チャイコフスキーのメジャーな交響曲も聴き始めていて、それらの曲たちに夢中になっていた頃でもありました。やはり僕のクラッシック聴き始めは、ご多分に漏れず交響曲からスタートしていた訳です。

でも、ラベルのスペイン狂詩曲は、それらの交響曲とはだいぶ違う種類の音楽、一定のフォーマットを持たない不定形の音楽に聴こえました。そうか、音楽にはこういうことも出来てしまうのか、クラッシックってやりたいことが自由に出来てしまう音楽なのだな、と思いました。

例えば、吉田秀和さんは、ラベルの音楽を確かに素晴らしく良くできているが、人工的で表面的な音楽であるというふうに評しています。確かに、吉田さんの言っていることはわかる気がする。賛同する側面も半分くらいはあるかな?ラベルの音楽には、そのような側面があることは僕も一方で強く感じて来ました。

例えば、ドビュッシーの音楽と比べると、そのことは強く感じられます。僕の感覚で言えば、ドビュッシーの音楽の出所は、とても、とても、とても深い。ドビュッシーに比べると、ラベルの音楽の出所は遥かに浅い感じがします。

けれども、僕には少年時代のこのような経験があった関係もあるのか、ラベルの音楽には一筋縄では済まされない何かがあると感じます。やはり、ボレロのような異常な曲を書いてしまう人たからなー。

何しろ、クラッシックを聴き始めたばかりの中学一年生には、スペイン狂詩曲は不定形な異形の音楽に聴こえました。初めはよくわからなかったけれども、ボディーブローのようにじわじわと効いてくる経験でありました。

ラベルのスペイン狂詩曲 その3

スペイン狂詩曲は、わりと短めの4曲で構成されていますが、例えば1曲目の「夜への前奏曲」が始まると、なんとも不思議な、都会では経験出来ないような暗闇の静寂のフィーリング、なんとも言えないフィーリングに包まれました。

こんな音楽は、今まで聴いたことがなかった。確かにこの音楽には夜があった。「夜の音楽」であったのです。夜を描写した音楽なのかもしれない。しかし僕からしてみれば、音楽そのものが「夜の音楽」であったのです。これは当時の僕にとっては不思議な体験でした。

しかも、この音楽は、夜のみではなく、夜の中に何かが居ることを感じさせるものであったのです。それが良いものなのか悪いものなのかはよくわからない。わからないけれとも、そこには確かに何かが居て、その何かが時に微かに、時に大きく動いているのが感じられる。

こんな不思議な面白さを1曲目「夜への前奏曲」、2曲目「マラゲーニャ」、3曲目「ハバネラ」に感じました。4曲目の「祭り」に関しては、曲が明快で、不思議な面白さは消えてしまったように感じたものです。明快さ、というのも、ラベルの音楽のよき側面であるとは思うのですが。

ところで、シャルル・ミンシュ指揮パリ管弦楽団の音源が見つからない。。。なので、とりあえず代わりにこの演奏を。定番ですが、僕はこの演奏は好きです。

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つづく

ラベルのスペイン狂詩曲 その2

さて、このレコードには、ボレロの他に、ダフニスとクロへ第2組曲と、スペイン狂詩曲という曲が入っていました。ボレロを初めて聴いた時は、どこかで聴いたことのあるメロディーが流れてきた途端、大きな歓びと興奮状態に包まれましたが、他の2曲はまったく馴染みのない未知の曲たちでした。

やはり始めの内はよくわからなかったと思います。でも、ボレロを聴く度に他の2曲も聴いていたので、だんだんと体の中に入っていったようです。やはり、ある種の音楽は、始めはわからないものであっても、リスニングを繰り返している内に自然と体の中に入っていくものなのですね。その内に、他の2曲もボレロに負けず劣らず好きになっていきました。

ダフニスとクロへ第2組曲も、まぁ素晴らしい曲ですね。だけど、僕により深い印象を残したのはスペイン狂詩曲の方でした。ダフニスとクロへ第2組曲は、当時の僕には、美しく明確な曲のように響きました。一方で、スペイン狂詩曲の方は、もっと訳のわからない、明確なフォルムを持たない、謎めいた曲のように聴こえたのです。レコードの曲の解説には、この曲は、ラベルにとって初めての純粋な管弦楽曲であると紹介されていたように思います。そうであれば、これは若書きの曲ということになる。そのことも、ずいぶん印象に残っていました。

つづく

ラベルのスペイン狂詩曲 その1

やれやれ、前回の記事が85日前とは。。。
いくら忙しかったとは言え、これではいけませんね。
気を取り直してがんばっていきたいと思います。

さて、ラベルに戻ります。
前にも書いたように、僕のラベルとの出会いは、家にあったシャルル・ミンシュ指揮パリ管弦楽団のレコードでした。

レコードの解説には、シャルル・ミンシュがアメリカ講演の最中にホテルで亡くなったこと。春の朝、パリに死す、という訳にはいかなかったけれど、安らかな死であったろう、というようなことが書かれていたように記憶しています。無論、中学一年生の僕には、ミンシュという人がどういう人なのか?ラベルのことさえ知らないのに知っているはずがありません。だけれども、赤い半透明のレコード盤とともに、何か強く印象に残るものがあったようです。

さて、このレコードには、ボレロの他に、ダフニスとクロへ第2組曲と、スペイン狂詩曲という曲が入っていました。ボレロを初めて聴いた時は、どこかで聴いたことのあるメロディーが流れてきた途端、大きな歓びと興奮状態に包まれましたが、他の2曲はまったく馴染みのない未知の曲たちでした。やはり始めの内はよくわからなかったと思います。でも、ボレロを聴く度に他の2曲も聴いていたので、だんだんと体の中に入っていったようです。やはり、ある種の音楽は、始めはわからないものであっても、リスニングを繰り返している内に自然と体の中に入っていくものなのですね。その内に、他の2曲もボレロに負けず劣らず好きになっていきました。

つづく

ネフェルティティー その2

さて、そもそも、この曲を作曲したのは、テナーサックスを吹いているウェイン・ショーターです。なんとも。。。不思議なメロディーてすよね。このショーターの作った曲をマイルスとショーターがゆっくりゆっくり、繰返し繰返し繰り返していく。ゆっくりゆっくり旋回していく。ループしていきます。そしてどんどん魔術性が増していく感じがします。

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そしてマイルスもショーターも最後までソロを取らずにこの曲は終わります。とうとうソロがなくなってしまった!!と言って驚かれた訳なのです。

しかし。。。よく聴いてみると、と言うか、明らかに、マイルスとショーターのバッグで、リズムセクションの3人(ハービー・ハンコックのピアノ、ロン・カーターのベース、トニー・ウィリアムスのドラムス)は、ソロはほとんどないものの(トニーの短いソロはありますが)即興演奏をしています。まぁ、モダンジャズリズムセクションのあり方としては当然のことをやっていると言えるのでしょうが。

そして、この3人の即興演奏は、淡いけれども豊かなグラディエーションを描いて進行します。薄味かもしれない。しかしその表情は実に多彩です。実に微妙で豊かな色彩を描いている!

淡いとか薄味とか書いているけれども、その抑えられた静かな曲の印象とは裏腹に、ものすごいバッションがみなぎっているのが感じられます。一見、静かな人なんだけれども、睨み付けられたら凍りついてしまう感じというか。
特にトニーのドラムス!!

無論、明らかにこのリズムセクションの演奏は、ボレロのふたつの旋律には合わないでしょう。
けれども、ボレロのリズムに別のあり方があって、更に管楽器奏者のアドリブなんかもあったりしたら、どんな感じになるのだろう?面白い展開にならないかな?と思ってしまったので、話がマイルス・デイビスに飛んでしまった訳です。

僕は、クラッシック大好き大好き大好き人間だけれども、たまにクラッシックのあり方に窮屈さを感じてしまうことがあります。
例えば、演奏家としてのモーツァルトだったら、もっと好き放題、やりたい放題やってたんじゃないか?と想像するんだけど、どうなんでしょうね?

ネフェルティティー その1

ラベルのボレロについて書いていて、マイルス・デイビスに話題が飛ぶとは自分でもまったく予想外であります。

マイルス・デイビスのネフェルティティーという曲は、ジャズファンにはよく知られているように、ソロがない、アドリブがない、ということで非常に有名な曲(というか演奏)です。

ラベルのボレロには当然ながらアドリブがありません。
クラッシックというジャンルは、基本的にはアドリブがない。モーツァルトやベートーベンは、自身の演奏会において、即興演奏をやっていたはずなのですが(ほんとに聴いてみたかった!!)、とにかく基本、アドリブがない。

一方、1940年代のビバップ革命後のモダンジャズにおいては、アドリブというものが大変重視される性質のものとなりました。なにしろ、ビバップの中心的存在であったチャーリーパーカーは、他に並ぶもののない天才即興演奏家であったし、1960年代には、ジョン・コルトレーンが、即興演奏の極北とような壮絶な演奏を繰り広げていました。

このネフェルティティーという曲が録音されたのは、そのコルトレーンが亡くなった1967年です。コルトレーン的喧騒の反動という訳でもないのでしょうが、一見抑えられたとても静かな印象の曲(というか演奏)なんです。

つづく

ボレロに関する補足というか妄想

前回、ラベルのボレロについて書いていて、ボレロという曲は、間違いなく素晴らしい傑作な訳だけれども、個人的には、何かひっかかりのようなものを感じて来た。
それは何なのだろう?と考えてみると、そうなのです、それは僕にとっては、この曲のボトムの部分であるリズムにあるようなのです。

ふたつの魅惑的な旋律が、変わることのない速度の単純なリズムに乗ってゆっくりと旋回していくところにこの曲の魅力があるのはよくわかります。この一定の速度のこの単純なリズムが、このふたつの旋律と有機的に絡み合うところにこの曲のマジックがある。確かにこの曲には、このリズムしかないのかもしれない。おそらくは、このリズムでなければこの曲は成立しないのだろう。

しかし。。。一方で、このリズムに別のあり方があったとするならば、この曲はどんなものになるのだろうか?と想像してしまった訳です。

クラッシック音楽というのは、ある時期までは、ほぼ100%ホワイトミュージックであった訳で、リズムに関する感覚が、ブラックミュージックとは異なるのはやむを得ないところ。

しかし例えば、エルビス・プレスリー以来のポップミュージックは、ブラックミュージックの存在がなければ産まれようがなかった訳ですよね。

ブラックの人たちの音楽もこよなく愛する僕とすれば、ボレロのリズムがもっとブラックのリズムの影響を受けていれば、この曲はどんな感じになるのだろう?と想像してしまった訳です。
(とは言え、この曲はジャズの影響は受けているだろうな。特に旋律の部分は。しかしおそらくリズムはそうではない)

そこで、ふと脳裏に浮かんだのが、ジャズの帝王マイルス・デイビスのネフェルティティーという曲なのでした。いやー、ジャンルがジャズに変わってしまいました。

つづく