ボレロに関する補足というか妄想

前回、ラベルのボレロについて書いていて、ボレロという曲は、間違いなく素晴らしい傑作な訳だけれども、個人的には、何かひっかかりのようなものを感じて来た。
それは何なのだろう?と考えてみると、そうなのです、それは僕にとっては、この曲のボトムの部分であるリズムにあるようなのです。

ふたつの魅惑的な旋律が、変わることのない速度の単純なリズムに乗ってゆっくりと旋回していくところにこの曲の魅力があるのはよくわかります。この一定の速度のこの単純なリズムが、このふたつの旋律と有機的に絡み合うところにこの曲のマジックがある。確かにこの曲には、このリズムしかないのかもしれない。おそらくは、このリズムでなければこの曲は成立しないのだろう。

しかし。。。一方で、このリズムに別のあり方があったとするならば、この曲はどんなものになるのだろうか?と想像してしまった訳です。

クラッシック音楽というのは、ある時期までは、ほぼ100%ホワイトミュージックであった訳で、リズムに関する感覚が、ブラックミュージックとは異なるのはやむを得ないところ。

しかし例えば、エルビス・プレスリー以来のポップミュージックは、ブラックミュージックの存在がなければ産まれようがなかった訳ですよね。

ブラックの人たちの音楽もこよなく愛する僕とすれば、ボレロのリズムがもっとブラックのリズムの影響を受けていれば、この曲はどんな感じになるのだろう?と想像してしまった訳です。
(とは言え、この曲はジャズの影響は受けているだろうな。特に旋律の部分は。しかしおそらくリズムはそうではない)

そこで、ふと脳裏に浮かんだのが、ジャズの帝王マイルス・デイビスのネフェルティティーという曲なのでした。いやー、ジャンルがジャズに変わってしまいました。

つづく